東京地方裁判所 昭和37年(ワ)1398号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決要旨〕銀行取引の便宜のため自己の実印を永年にわたり他人に預けてその自由な使用に委ねていた場合には、代理権の授与がなかつたとしても、銀行取引の範囲において表見代理成立のための基本代理権の存在を肯定することができる。
〔事実と争点〕原告所有の本件建物につき、被告のため、昭和三五年四月九日付根抵当権設定契約に基く根抵当権設定登記(債務者日本精機株式会社、債権元本極度額二五万円)、停止条件付代物弁済契約に基く所有権移転登記、停止条件付賃貸借契約に基く賃借権設定仮登記がなされているが、これらは訴外李乙柄が原告の無権代理人としてしたものであつた。被告は仮りに李乙柄が無権代理人としてしたことであつたとしても、民法第一一〇条の表見代理が成立するから原告は責任を免がれないと主張したに対し、原告は、民法第一一〇条の表見代理成立のため必要な基本代理権を李に与えたことはないから、被告の主張は失当なりと争う。この点についての判示は次のとおりである。
〔判決理由〕……を綜合すれば、原告はかねて訴外李乙柄から、第三国人名義では銀行取引をするのに不便だから原告の名義を貸与せられたいとの申出を受けてこれを承諾し、同訴外人は原告の右承諾に基き原告名義を借用して銀行の当座取引口座を開設し、そのため爾来原告の実印を預り、永年に亘つてその使用を任されていたこと、昭和三五年一月頃原告が訴外阿由孝夫に対する抵当債務を弁済するにあたり、訴外李乙柄に弁済資金の調達並びに抵当権設定登記等の抹消手続を依頼し、そのために本件建物の権利証を同人に交付していること、本件契約の締結に先立ち被告会社の代表取締役新井鬼一は担保物件たる本件建物調査のため訴外李乙柄と同道して原告方を訪れ、一応の検分を遂げていること、原告は日本精機の代表取締役として登記されていること、訴外李乙柄は日本精機代表取締役寺島初雄なる名刺を作成してこれを使用しており、被告は本件契約の締結に当り右訴外人から原告の実印、印鑑証明書及び本件建物の権利証等を提示されたので、前記事情も加味し、右訴外人に原告を代理して本件契約を締結する権限があると信じたことを認めることができ、右認定のような事情のもとにあつては、被告が訴外李乙柄を原告の代理人と信じるにつき別に過失はないものといわなければならない。ところで、民法第一一〇条の表見代理が成立するためには、いわゆる基本代理権の存在を必要とするところ、前記認定にかかる、原告の訴外阿田葉孝夫に対する抵当債務弁済関係における訴外李乙柄の代理権は本件契約締結当時には既に消滅していたことは前記乙第一号証(登記簿謄本)に昭和三五年一月一二日付をもつて当該抵当権設定登記等の抹消登記の記載がなされていることによつて明らかであり、登記簿に記載ある以上、一応対第三者の関係においても右代理権の消滅は表示せられたものというべきであるから、右は本件の場合に基本代理権となすに由ないが、原告は、前記認定のとおり、永年に亘り訴外李乙柄に自己の実印を預けてその使用を任せていたものであり、実印を預けることが一概に直ちに代理権を授与した徴ひようとはなし得ないが、永年に亘つて他人に実印を預け、その使用を任せておくことは、少くともその他人に自己の信用を与えたことを意味するものであり、授信者はその信用を誤信した第三者に対する責任を免れ得ないから、結局授信者は受信者の行為につき責任を負うことになり、究極においては右他人に代理権を授与したのと異らない結果となる。今本件についてこれをみるに、原告は前記認定のとおり、銀行取引の便宜のために自己の名義を訴外李乙柄に貸与し、そのために自己の実印を永年に亘つて同訴外人に預け、その自由なる使用に任せていたのであるから、右の理論に従えば、たとえ代理権の授与はなかつたとしても、右銀行取引の範囲において、原告は同訴外人に代理権を授与したのと同様の立場に立つものと考え得る。かように考えれば、本件の場合右銀行取引のための実印預託の関係より基本代理権を抽出するに妨げない。(古山宏)